昭和43年11月30日 朝の御理解
御理解 第20節
「此方が天地金乃神よりおかげを受けておることを話にして聞かすのぞ。疑うて聞かぬ者は是非におよばず。かわいいものじゃ。また時を待っておかげを受けるがよし。めいめいに子を持って合点せよ。親のいうことを聞かぬ子が一番つまらぬ。言うことを聞かぬ子は、親もしかたがあるまいが。」
素直に、素直に、えー、頂かせてもらわなければならない御理解だと思いますね。もう、色々難しいこと考えないで、この御教えを、おー、この、教えておられることを、素直に、素直に聞いたら、それでもおかげが受けられます。確かに、教祖様は、天地の親神様から、じかに、お教えを頂いておられる。先ず、私は、それを素直に信じなければいけない。教祖様は、学者でもなかった。えー、とりわけほんなら、えー、ね。いわば、偉いお方でという意味ではなかった。ね。ご自分でも、無学の百姓と言うておられますように、確かにそれが本当なんだ。どうして教祖様が、このような素晴らしい、いー、人が助かるわけではない、ね。天地の神様も、人間も、助かるほどしの道を開かれ、その教えを、おー、説き得られたであろうかと。とても、これは、教祖様の頭からども考え、考え出しなさったとは思われない。ほんとに、神様から、いちいちお知らせを頂いて、ね。いわゆる、インスピレーションである。を、受けられて、この、教えを説いておられる。もう、一言一句が、実に素晴らしいというか、深いというか、広いというか、私共が、そこのところを、あー、極めて行こうとしても、なかなか分からんけれども、ね。それを、極めて行こうという願い、意欲を持って、信心をさせて頂いたら、もう、ただただ驚くばかりである。
昨日の、んー、熊本の、富永先生が、あー、御信者さんを一人伴うて、参ってきておる。いつも、おー、奥さんのほうが、月参りをされます。昨日、先生のほうが参ってきておる。身体が、ご承知のように、悪いですけれども、神様におすがりしてまいられる。もう、来る道々も、ほんとにおかげを頂いて、ついてきた信者さんも、たまがるほどに、その、万事万端の上に、タイミングようお都合、お繰り合わせを頂いて、久留米の駅に着かせて頂いた時なんかは、先生、やっぱ、貴方の言う通りすると、ほんとにおかげ頂くですねと言うてその、えー、神様の間違いなさを、先生と一緒に来て、それに、椛目に時代から、合楽に向こうて来るときは、何時もこんなにおかげ頂くんだという意味の事を話し話し見えられた。そして、ここへ着かれてから、えー、頂かれた御理解が、ちょうど、佐田さん達が、あー、佐田さんのお導きされた、んー、方達が二人、日田の山奥のほうから一人と、それから、久留米から一人と、丁度、参り合わせておられるところに、佐田さんが参って見えておられたから、ね。まあ、佐田さんの、最近受けておられる、素晴らしい神様のおかげというか、まあ、素晴らしいタイミングというか、先日、日田のほうに、えー、家族で行かれた。その時、もう、本当に、神様のタイミングとは、何と素晴らしい、いや、神様の御守護と言うのは、何と言う素晴らしい事であろうかと。もう、こちらにお届けをして、やらせて頂きましたら、もう、本当に、えー、時間で言うならば、もう少し早く行ってもいけん、遅く行ってもいけない。もう、なんとも言えん、素晴らしいタイミングの中にね。おかげを受けられて、えー、例えて、まあ言うと、その、佐田さんのそのお届けを申しますと、ね。あの、丁度、やらせて頂いたところが、その前の日に、電話をかけて行こうかというお届けがあった。だから、私がね、いや、電話は要らんよ、神様にお願いしてお出でなさいと私が言うた。しかし、日田の山奥まで行ってから、山奥も山奥、随分山奥ですよね、裏耶馬渓を通っていかなければならない所なんです。に、行くのに、しかも家族で行くのに、向こうが留守であったとか何か、用があったち言うんじゃったら、困るから、電話をかけて行こうというのであったけれども、電話をかけることは要らん、神様にお願いをして行きなさいという事であった。それで、やらせて頂いたら、もう、道中もさることながら、向こうにやらせて頂きましたら、丁度、まあ、お客さんが見えて、そのお客さんを表の所まで送って出ておられるところであった。ね。少しはよう行っても、そのお客さんがおられる、まあだ、居られるところであった。少し遅れたら、そのお客さんと一緒に、どこにか出て行かれるところであった。もう、そのタイミングというたら先生、本当に、いわゆる、お取次ぎを頂いて、お取次ぎの働きというものが、親先生が、言われる通りの事さえしときゃ、こういう、ご守護の中にあるということを、いよいよ確信できるというのである。そういうおかげを受けるということもですけどね。こういう、間違いのない働きの中に、こうやって、おかげ頂けれるという、お礼をして言うておられます。只今、御初穂奉らせて頂こうと思うて、何気なしに、お初穂袋をさせて頂きましたら、丁度そこへ、お導きをしておる人達の名前が、裏に表に書いてあって、しかも、佐田恵美子、自分の、その、恵美子と書いてあるのが開いたら書いてあったと。まあ、そういうようなことから、神様の、お働きの素晴らしさに、もう、何時ものことながら、恐れ入ってしまっておると、こう言うのである。という、私が、そこに、三人でテープ聞いておられたんです。あの人たちの話をここでしたんですよ。そしたら、信者さんが、富永先生の顔を見てから、先生、私たちが話してきた通りの話を親先生がしなさいましたねと言うて、後から下がって、それを言うんですよね。ね。私共の心が、合楽へ、合楽へとこう、親先生と二人で来る道々で、この人は非常にその、まあだ、一年余りですけれども、まあ、どちらかというと、教学派、もう、富永先生から、御道のお書物というお書物は、借りて借りて、もう、読み尽くしたというような人らしい。ところが、いよいよ、おかげが、まあ、受けられない。合楽の話はもう、テープでもう、嫌というほど、毎日毎日、ね。毎月十巻ですかね、借っておい出られるのは。ですからその、十巻の、をもう、富永先生が言われるように、もう、二回よりも三回、三回よりも四回と、もう繰り返し繰り返し、そしてから、もう、返すとが惜しいと、というほどに聞いて聞いて聞きぬかれる。頂き抜かれるわけなんです。ね。でその、分かっておったけれどもです。ね。神様へ自分の心が向こうてくると、このようにタイミングようおかげが受けられるという事を体験してきた。そしてその、その素晴らしい神様のご守護の中にあることを実感して、親先生と二人でお話してきたことを、それと同じ話をここで聞いてから、あの、恐れ入ったと言うて、私が申しておりますがですね。教祖様が、間違いなく、天地の親神様から、ね。お受けになられた話しをしておられる。残しておられる。ね。言うならば、ここでも、ここでもやはり、私が、大坪総一郎の、おー、頭から、出てくる話じゃない。今日はいっちょ、これば話そう。あれが来たきん、いっちょ、あれば話そう。と言うて話よりなさるとじゃないなあ、神ながらなもんだなあと、皆さんも、やはり、そこを感じられるだろうと、こう思うのです。言うならば、だから、あれは、神様の、言うならば、じかに私共に下さっておる御教えだと、皆さんも、分かりなさるだろうと思うのです。ね。だから、それを、それを疑うて聞かぬものは仕方がない。いや、疑うて、疑うてはいないけれども、ね。ここでは聞いただけじゃいかん。ね。疑うただけじゃない、それを信じて、そしてそれを、行じさせて頂かなければ、それこそ、是非に及ばずである。ね。言うて聞かせても、それを聞かん、または、言うて聞かせて、聞いても、それを守らない、ならば、是非におよばん。
また時を待っておかげを受けるがよしと。ま、この辺のところに、えー、教祖様の、おー、何と言うでしょうかね、えー、寂しさというかね、もう、これだけおかげの受けられる話をして聞かせとるけれども、この人達がいう事を聞かぬと。というものに対する、一つの、歯がゆさとでも言うかね、そういうようなものを、ここに感じられます。それでも、もう、お前のようなのは知らんと言うのでなくてから、また、一つ、時節を待って、ね。時を待って、おかげを受けるが良しと、こう。この、私の気持ちはですね、この私の気持ちは、いわゆる、教祖様がね、この、金光大神の気持ちは、あんた達が一遍、親になってみなければ分からんのだと、こう言うておられる。ね。あんた達が一遍、親になってみて、自分が子供を持ってみて、ね。まあ、合点するより他にはないと。私は、そういう思いで、あんた方に、話ておるんだ、そういう思いで、ね。神様から頂いておる、こうすりゃおかげになる、こうすりゃ幸せになれるという道を説いておるのだけれども、それを、聞かんなら仕方がない。是非にはおよばん。聞いてくれと、こう言うておられるけれども、それを聞かんなら仕方がない。時を待って、またおかげを受けるがよい。ね。この、金光大神の、まあ、切ないというか、歯がいさというか、ね。言うて聞かん寂しさというか。これはもう、どうにも仕様がない。あんた達が、実感的に、本当に、自分の子供を持ってみて、子供がいう事を聞かん時の、親の心というものを、一つ分かって、そして、合点するよりほかに仕様はない。ね。いう事を聞かぬ子が一番詰まらぬということが分かる。いう事を聞かぬ子は、いわゆる、金光大神でも仕方がないのであった。いう事を聞かぬ子は、親でも仕方がなかった。
私は、えー、何回か、そういうお知らせを頂いた事があるんですけれども、朝、目が覚める。それで、えー、洗面、それから、その、奉仕着を付けさせて頂いてから、あの、襖を開けて、出ろうとする時に、っとこう、あの、お提灯を出して下さるお知らせを、何回も頂いた事がある。今日なんかは、あの、御本部へお参りなさる方は、あー、ご承知でしょうが、金光様が、あー、三時五十分にお広前にご出仕になりますね、お出ましになります。そん時に、先導される先生が、あの、お提灯をつけておい出られましょう。足元をずーっと照らしになって、あの、お提灯をね、っとこう、たたんであるんですよ。中にはロウソクが入っておる。それを、たたんであるのを、っと、私の前に、その、ふすま開けて出ろうとしたら、下さるんです。まあ、私は、思わず手を出してから、それをこう、頂かんならんように、はっきり頂くんです。ね。ですから、ほんなら、お提灯は、貸しても下さにもするんですけれども、ね。それに灯を点ずるのは、私共なんです。ね。ま、ここでは、いう事を聞かぬ、ね。疑うて聞かぬものは、まあ、仕方がないとこう仰るが、ね。ほんなら、信じていう事を聞いて、あの、お話を、例えば聞いても、ね。それを、守るのは私達なんです。それを信じて守るのは私達なんです。ね。私は、えー、その、以前に、何回も頂いた、さっきでもそうですけども、やっぱりあの、そういう時には、自分の心の中に、ちょっとこう、暗いものがあったりする時のように思うんです。私はもう、おー、私の、おー、寝室から、ここの控えに出てまいります間に、おかげで灯が灯る。もう、この光に入らせて頂いてから、そこで、四時のきっかけに、そこの襖を開けてくれますから、この、御簾の中に入ります時にはもう、私の心の中にはもう、有難い、もう、とにかく有難い灯が点じられておる。ね。私がその、明るい提灯を、私が持っていなかったらです。私の後から着いて来る人達が困ります、私の心が真っ暗であったら。それこそ、着いてきなさい、この提灯に、決して苦労はさせはせんと、言うなら、公言しておる私ですから、消えた提灯、真っ暗な提灯、持っとったっちゃ仕方がない。何にもならないでしょう。私だけが、いわば、足元暗くするだけじゃない、みんなが、足元を暗くしなければならない。だから、どうでも、私は、その、灯を点ずるという事をですね。いち早く火を点じて持たなければならないことを、これはまあ、責任においてね、取次ぎ者の責任において、それを感じるのです。昨日も、その富永先生、えー、先生、私は最近、ようやくあの、先生が、椛目での、おー、御祈念を、ようやく今、あー、真似させて頂きよりますとこう言う。現在では、もう、先生が三時過ぎには、こう、こちらへ出られて、四時の御祈念があっておるそうですけど、まだそれは、まあ、出来ませんけれどもと言う事でしたが、私が、私はね、あの、控えに下がらせて頂いてから、二十分ないし三十分の間の、おー、起きてから、ここへ、えー、御神前に進むまでの、待たせて頂くその、二十分、三十分の時間が、そうだなあと、私の心の中には、その、んー、とにかく心のときめくようなものを感じると、私が言う。ここの襖を開けてから、中に入らせて頂く時なんかは、もう、ほんなごて、私の心はときめきよる。ね。もう、それを話したら、ま、富永先生もそうでしたが、一緒に来ておった、あの、藤井さんと言ったかな。その方が、もう、えらい感動されるんですよね。もう、私の心の中には、もう、立派に光が点じられておるわけなんです。ね。だから、言うならば、そのようなおかげを頂いておる、しかも、あれは先生の話じゃない、神様が言うて下さらんきゃ、あんなことは言われまいと思う、言われまい、話されまいというお話をです、皆さんが聞いてくださってある。ね。それを、ね。信じて、まあ私は聞いて下さってあると、私は信じます。ですから、聞いて下さったら、それを皆さんがね、守って下さらなきゃならん。でなかったら、私の持っておる、提灯の後からついてきておりなさるということは言えない。遠く離れてしまったような感じ。灯が、提灯の灯はどこへやら、もう、さーきのほうへ行ってしまってるというようなところから着いて行った分では、私は、本当に、親先生の仰る通りさえしときゃ間違いないといったようなおかげは受けられんと思う。ね。そこのところをですね、おかげを頂いていただかなきゃならない。ですからその、いう事を聞くと、ね。いう事を聞かぬ子が、一番詰まらんとこういう。また、いう事を聞かぬ子は、親も仕方があるまいがと言うておられる。ね。押さえつけてから、言うこと聞かせるという訳にはいかん。言うこと聞かん。だから、結局、一番詰まらぬといわれるような子であってはならないという事を一つ、思わにゃいけん。ね。
親も仕方があるまいがと。いわば、さじを投げたように、な、親の寂しさというようなものを、親に感じさせるような事であってはならぬ。ね。ここでは、いわば、金光大神が天地の親神様から、教えて下さった事を話にして聞かすのぞと仰る。ね。その、お話を聞いて、まあ、言うなら守って、そして、私が、ほんなら、今日このようなおかげを受けておる。ね。いわば、私は、ね。金光大神の言われることを聞いて、おかげを受けて現しておるという事は、いうなら、私は、金光大神が嘘をおっしゃってるんじゃないと言う実証者なんだ。ね。金光大神の言われる通りさえすりゃ、おかげは頂けるという事を、私は立証しておるのだ。ね。ですから、ここでは、私のいう事を聞かなかったら、やはり、私でも仕方があるまいがという事になってくる。親でも仕方があるまいが。ただ、私は本当に、分からせきらんことが相すまん。同時に、寂しい。または、歯がゆい。これは、金光大神が感じられることと同じことではなかろうかと私は思う。
私の心で、もう、やはり、それこそ、心が真っ黒うなるようなことは、ほんなら、ちょいちょいあるのですよ、やはり。ですから、心の中の、その光というものを、私が、消さないように、自分で心掛けさせて頂くということは、ね。その、頂いておる提灯の、おー、光を点じさせて頂くということはですね。とにかく、どういう事を言ったらいいでしょうか。自分には、何時も、少ーしは無理だということ。自分には少ーしは、無理だと言う修行をさせて頂いておるということ。ね。五時の御祈念のときも、やはり、少しは無理だった。それが、段々おかげ頂けるようになった。なら、四時の御祈念は、だから、また、少しは無理だ。ね。起きてここまで、出てくる間には、もう、灯は点じておるけれども、なら、起きるまでは、やはり少しは無理なんだ。しかもそれを、おー、粗末にしない。もうこれは、一秒間でも切っちゃならない。一日だって、これを欠かすような事があっちゃならない。これは、少々、身体が悪かっても、どうであっても、これだけはという、そういう私は、信心がね。いつも自分の心のなかに、ぽっと直ぐ灯が点けられる、もう、体制が出来ておる。ね。同時に、私は、ね。素直に教えを、例えば、ここ、二、三日、二、三日前の、あの、朝のご理解の中に、不足を言うまい、同時に思いもしまいという、あの、御理解を頂いてですね。皆さん、あれを、みんな実行しておられるようですね。それでもう、あれを実行しだしたところが、もう今まで、不平を言いよったこと、また、不平を思いよったことがもう、やたらに多く、こげん不平を言いよったばいの、こげん不足を思いよったばいのという事が多いのに驚くと言うておられます。これは、みんな体験しとるとじゃないだろうか。そして、不足を言わんで済むごたる事にまで不足を言いよったことに気が付いておられる。不平に思わんで、もうちょっと、頭いっちょ打ちぶってです、いかん、いかんと思うただけで、払われるような不足をです、心の中に、何時も思いよった事を実感しておられる。いわゆる、教えに取り組むと、そういう事になってくる。ですから、今日一日、昨日もおかげ頂いてから、危ないこっで、もう不足を言おうとしました時に、おかげで言わんで済むおかげを頂いて、まあ、かろうじて一日を言わんで済む、思わんですむおかげを頂いて、こういう、心の中におかげを頂いたと言うて、あれから、幾人の方が、でもそれをその、お届けをなさる。ようにですね、その事をです、本当に行じるという事によって、私は、行じ抜いた時に、心の中に、いわば、あー、光が点じるようなおかげをいただけるというふうに思うのです。ね。教えを本気に、ね。もう、それは、一言の御教えでもいいから、一言を守り抜かせて頂くということである。ね。同時に、自分には少しは無理だけれども、信心の、ここに、節度を保たせて頂きながら、ね。それが、もう、楽に出来るというのじゃなくて、少ーしは、自分には、もうきつい。少しは自分には無理だというぐらいの修行に取り組んで、しかもそれがです、ね。途中で切れるようなことのない、節度のある信心で、修行精神を持ってそれを頂きぬいていくという、私は、信心修行と。ね。そして、ささやかな、ささやかなって言うか、自分の心に掛けさせて頂いておるその、御教えなら御教えをです、ね。それを本気で、それに取り組むということ。それを日常生活の上にも、それを頂きぬかせて頂くということ。不平は言わんぞ、思わんぞと。ね。もう、言わんで済むことは、まあ、出来るかも知れんけれども、思わんですむようなことは、とても出来まいごとあるけれども、実際、行じてみると案外出来る。ね。はあー、こげなことを、心に浮かんでも、これは思う段じゃない。と、その不足の思いを払うことが確かにできる。そして、それが有難い。それを取り組む前までは、こんなに沢山不平を思いよった、不足を言いよったという事に気が付く。ね。そういう風に私は、一つひとつ、教えが、自分のものになって行くお繰り合わせを頂いて、ね。そして、私は、ね。いよいよ、教えを、ね。信じて聞かせてもらい、それを、信じて行じさせて貰うというところに、ね。言う事を聞かぬ子が一番つまらぬと仰るのではなくて、その反対に、ね。もう、いう事を聞いてくれる子供が、ね。一番だと、今度は思うて下さるようなおかげを頂いて、ね。親でも仕方があるまいがではなくて、本当に、私は良い子を持って幸せだと、親が喜んで下さるような、私はおかげを頂けるということがです、ね。子供も助かり、親も助かるという事になるのじゃ無いかという風に思うのです。ね。一番つまらんと、親でも仕方があるまいがと、言うのではなくて、私は、こういう良い子を持って幸せだと、ね。もう、こんな子が一番と、こう、親から言われるようなね。一つ、信心をさせて頂き、そういう信心を願いとしていかなきゃならん。それには、少しは、きついけれども、少しは、自分の手の届かないぐらいのところにですね。まあ、弾みをもって、その修行に取り組ませてもらう。そして、もうこれは、ささやかな御教えでも良いから、頂いたことをです、ね。心の中に掛け続ける。ね。思い続ける。そういう心で、日々の御教えを信じて聞かせて貰う。また、信じてそれを、行の上に現していくというようなです。おかげを頂かせて頂くときですね、神様が喜んでくださり、金光大神が喜んでくださり、私共も、有難いおかげになってくる。この、御理解二十節は、もう、ですから、只今申しましたようなことを申しましたけれども、あー、これはもう、このままを頂かせていけば良いと思います。素直に。ね。なるほど、なるほどと、合点して頂きゃ良い訳なんです。そしてそれを、素直に、一つ行じようと言う気になれば良い訳なんです。此方が天地金乃神よりおかげを受けていることを話にして聞かすのぞ。疑うて聞かぬ者は是非におよばず。かわいいものじゃ。また時を待っておかげを受けるがよし。めいめいに子を持って合点せよ。親のいう事を聞かぬ子が一番つまらぬ。言うことを聞かぬ子は、親もしかたがあるまいがと。ね。このままを、ひとつ、頂かせて貰うて、金光大神に、いうなら、喜びで、良い信者氏子をもって、金光大神も幸せだと、金光大神が思うて下さるような、一つ、氏子にお取立てを頂きたいものだと思うですね。どうぞ。
中村良一
2005年5月8日